先日、Amazonプライム・ビデオのおすすめの欄に『対峙』という作品が表示されていました。無骨なタイトルが何となく気になって観始めてみると、冒頭のタイトルに驚き二度見しました。なんと原題が『MASS(マス)』なのです!
全くノーマークの作品でしたが、私はただならぬご縁を感じ、そこから本腰を入れて作品に集中する事にしたことは言うまでもありません。
作中人物
リチャード・犯人の父親
リンダ ・犯人の母親
ヘイデン ・犯人
ジェイ ・被害者の父親
ゲイル ・被害者の母親
エヴァン ・被害者
内容紹介
アメリカの高校で、生徒による銃乱射事件が勃発。多くの同級生が殺され、犯人の少年も校内で自ら命を絶った。それから6年、いまだ息子の死を受け入れられないジェイとゲイルの夫妻は、事件の背景にどういう真実があったのか、何か予兆があったのではないかという思いを募らせていた。
夫妻は、セラピストの勧めで、加害者の両親と会って話をする機会を得る。場所は教会の奥の小さな個室、立会人は無し。「お元気ですか?」と、古い知り合い同士のような挨拶をぎこちなく交わす 4 人。そして遂に、ゲイルの「息子さんについて何もかも話してください」という言葉を合図に、誰も結末が予測できない対話が幕を開ける──
本作は、凄惨な事件の被害者の両親と、加害者の両親という、心情的に考えても対話が最も困難と思われる4人が、「修復的司法」という制度を用いて、実際に面と向かって相手と話し合う事になるというお話です。
鑑賞後、私はこの映画の素晴らしさに圧倒され、暫し呆然とした後、我に帰るや否や「こ、これは書かなくては!」と思い立ち、久しぶりの映画の記事を今こうして書いています。
・本編の内容に触れますので、作品に興味のあるある方は是非本編をご覧になってから本記事を読んで頂けたらと思います。
・すれ違う思い
ぎこちない雰囲気で始まった4人の対話は、被害者、加害者、父親、母親、夫、妻、それぞれの立場において、思いがすれ違います。
リンダが幼少期の息子(犯人)がいかに賢く優しい人間だったのかを伝えようとして見せたカタツムリの瓶は、犯人の発達や人格の違和感を感じさせ、緊張と不安を悟られぬよう努めて冷静に対応しようとするリチャードの態度は、事件の重大さを意に介さないドライで冷酷な印象を思わせてしまいます。
また、生前の犯人の全てを教えて欲しいと迫るゲイルは、感情をぶつけて憂さ晴らしをしようとする母親と感じ取られ、犯人の異常性とその対応の不備を訴えるジェイは、犯人の家族全員の尊厳を否定しているかのように思われてしまいます。
事件から6年の歳月が経ったことによって、冷静に行われるかのように見えた対話は、言葉のすれ違いをきっかけに、それぞれがこれまで抑えていた本心をぶつけ合う感情的なものとなってしまいます。その様子は「やっぱり無理だったか…」と、収拾のつかない不毛な結末を観客に予感させます。
しかし、激しい対話を通して、事件の知られざる側面や、お互いの本心が徐々に明らかになって行くことによって、4人の心には変化が訪れます。
・赦し(ゆるし):罪・過失・無礼などをとがめ無いこと
私は特定の信仰を持ってはいませんが、以前、「キリスト教が発展した理由は信仰に"赦し(ゆるし)"という概念を用いたこと」という文章を何かで読んだ事があります。
信仰に関係なく、赦すことや赦されることは、私達の生活において日常的に起こり得る出来事です。
しかし、残念ながら罪や過ちを赦すという行為は、傷つけられた側にとっては簡単な事ではありません。言葉ではわかっていても、それが如何に困難であるかは、個人においても、国際的な外交のような場においても、誰もが知るところです。
そんな相容れない人々が、対話を通して"赦し"に至る、という流れが本作のシナリオの根幹になっています。
被害者の両親にとって、息子を殺した犯人を赦すということはとても難しい事です。
それでも、悲しみから解放されたい、辛い過去に縛られず人生を歩みたいと願う時、その手段の一つとして対話の場に身を投じたということが、赦しや救済を得るきっかけとなり、結論として対話によって対立が解消されることは不可能ではない、というメッセージを本作品は描いています。
・タイトルについて
私は本作品を鑑賞しながら、MASS(マス)という言葉の意味について改めて考えていました。
私が自分の店にMASSという名前をつけた理由については以前の記事に書きました。
その経緯についてはとても個人的なものでしたが、店名にしたこともあってMASSという言葉は私にとってとても身近なものとなり、意味を考える機会も多かったと感じます。
今回初めて知ったのは、銃乱射事件のような大量殺人を海外では"mass shooting(マスシューティング)"と呼称するそうです。『MASS』というタイトルに込められた意味として、事件を直接的に表すマスシューティングや、人が集まる(mass)という意味合いは当然含まれていると思いますが、私は舞台が教会に併設された一室である事、救済のために人が集まるという舞台設定などから、カトリック教会における典礼儀式のミサ(mass)の意味合を強く感じました。
対話が最も困難だと思われる立場の4人が、深い悲しみと葛藤を抱えつつも自らの意思で対話の場へ出向き、話し合い、共感が生まれ、互いに赦しを与え合うような現象は、集会(人との対話)や、祈り(信仰や自己との対話)といった、対話を目的としたミサという儀式に構造的にも重なるように感じました。
邦題についても少し触れておきます。
前述で無骨と書いてしまいましたが、邦題の『対峙』もインパクトがあっていいと思います。
対話を描いた作品ですが、日本語の"対話"では言葉の印象が少し穏やかすぎて、本編の雰囲気には合わないような気がします。その点、"対峙"は困難な対話の前の緊張感や、覚悟のようなものが感じられ、物語への導入には相応しいと思います。
・最後に
映画を観るときに、ある特定の人物の側に立って物語を楽しむことは誰もが無意識に行っていることの一つです。
ただ、何処にも感情移入出来ないような作品の場合、余程素晴らしい脚本でもない限り、退屈に感じてしまう人も少なくないでしょう。
今回取り上げた『対峙』は、作品自体の評価も高く、脚本も素晴らしいのですが、年齢や立場によっては、何処にも感情移入出来ない、理解できない、共感できない、という人もいるかもしれません。というか、いるだろうなぁ、と思いました。
なぜなら、本作品と観客の相性は、信仰や倫理観や理解力に依存するものでは無く、もっとシンプルに観る人の経験や、立場に強く依存するのではないかと感じたからです。
私も、もしこの作品を若い時に、または違う立場の時に観たとしたら、良さはわからなかったかもしれません。
ただ、このような作品は、数年後、数十年後に観ると、めちゃくちゃ刺さったりするので、乗れなかった人もいつかまた再チャレンジしてみるのもいいかもしれませんね。きっと違う印象を持つのではないかと思います。
確かにそういった意味では、私にこの作品がめちゃくちゃ刺さった理由として、私の実生活での立場が大きかったことは言わざるを得ません。
シングルファーザーであることは、父親であり、母親のような役割もあります。息子の持つ知的障害が犯罪に密接であること(加害者の面でも、被害者の面でも)は、社会に起こる様々な事件を見る度に強く感じています。
つまり、作品のクオリティは言わずもがな、登場人物のほぼ全員に強烈な感情移入をしながらの映画鑑賞というものは終始共感しか無く、タイトルにまで運命を感じてしまえば、もはや私にとっては「人生の一本に出会ってしまった!」ということなのです。心からそう思える本当に素晴らしい作品でした。
興味のある方は是非。自信を持っておすすめします。
『対峙』(原題・MASS)
監督:脚本/フラン・クランツ
日本公開/ 2024年