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大江健三郎『洪水はわが魂に及び』を読んで、知的障害の息子をもつ私が考えたこと

 

 

 私は、息子が自閉症と診断された時、専門書以外で、まず読むべきは大江健三郎の本なのではないかと思いました。

 大江健三郎は、史上最年少で谷崎潤一郎賞の受賞を始め、国内の主要な文学賞を他の作家より二十年以上早いペースで受賞し、1994年には日本人で二人目のノーベル賞文学賞を受賞。

 そして、知的障害をもつ作曲家・大江光の父親でもあります。

 そのような作家が、知的障害者の子どもを育てながら、何を感じ、どのように行動したか、その体験は間違いなく彼の創作のインスピレーションとなり、適切な言葉を伴った心象描写となって小説に表現されているに違いないと思ったからです。

 その直感の赴くまま大江健三郎作品を読んできた結果、私の直感を遥かに上回る、数々の素晴らしい作品に触れる事ができました。

 本作『洪水はわが魂に及び』は、『〈自閉症学のすすめ(ミネルヴァ書房)と言う本に、ブックガイドとして記載されていたことを機に手に取りました。

 自閉症の息子を持つ私にとっては痛切に共感を覚える作品で、あまりにも没入し過ぎた読書体験だったため、読了後はしばらく放心状態でした。今回はこの『洪水はわが魂に及び』という作品について、私が感じたことを書いてみようと思います。

 

・ 勇魚とジン"について考えたこと

・「自由航海団について考えたこと

・ 勇魚が交感する樹木の魂」「鯨の魂とは何だったのか

 

 

 まずは上巻のあらすじから。

 

 

洪水はわが魂に及び(上巻)』あらすじ

50種の野鳥を識別する知恵遅れの幼児ジンと共に、武蔵野大地の核シェルターに立て篭もり、「樹木の魂」「鯨の魂」と交感する大木勇魚(おおき いさな)。

 世界の終末に臨んでなお救済を求めず、自らの破滅に向かって突き進む「自由航海団」の若者たち。

 世代を異にする両者の対立・協同のうちに、明日なき人類の嘆きと怒り、恐れと祈りをパセティック(痛ましい、悲壮)に描いて、野間文芸賞を受賞した渾身の純文学巨篇。

 

 

・"勇魚とジン"について考えたこと

 

 主人公・勇魚は、過酷な職務と、自傷行動を繰り返す知的障害者の息子・ジンとの生活に疲弊し、極度の精神衰弱に陥っていました。

 憔悴した勇魚は、自分と息子が生きて行くためには社会と隔絶した場所が必要だと考え、国内でただ一つ完成された民間核シェルターに閉じ籠ります。

 シェルターの中で瞑想することを通じて、この世界で最も善良な存在である(と信じる)樹木や鯨と交信を続けることが、自分の使命であると信じながら、世界の終わりを待ち続けるという生活をしています。

 

 私は、核シェルターにこそ住んでいるわけではありませんが、自分の住む自宅がシェルター(避難所)として万全かと考える事があります。

 一般的な家庭に比べ、閉鎖的であまり自由のきかない私と息子の生活はとてもささやかなものですが、それでも、この生活を死守しなければならないと思う強い義務感や、強迫観念のようなものが、強固なシェルターを築いて外界から身を守りたいという幻想を抱かせるのかもしれません。

 その幻想は、雨風をしのげるという意味合いでのシェルターにとどまらず、気付けばパンデミック、経済崩壊、暴徒やゾンビの襲来までもをイメージしている時、私の心の奥底に社会への漠然とした不安がある事に気付きます。

 それゆえ、作中に描かれる勇魚とジンの生活は過剰で極端であるにもかかわらず、私にとってはとても身近で共感を覚えるものでした。そんな二人の生活がどのようになっていくのか、私は自分達の将来を見せられるような気持ちになりながら物語を読み進めました。

 

 

・「自由航海団」について考えたこと

 

 「自由航海団」は作中に登場する、社会にうまく適応できなかった若者の集団です。

 リーダーの喬木(たかき)を中心に、来たるカタストロフィ(大惨事、破滅)に備え、戦闘や航海術などの集団訓練を行なっています。

 自由航海団の若者たちは、シェルターから時折り外界を観察する勇魚に対して、敵対勢力の監視者として警戒心を抱き、交戦的な態度で近づきます。しかし、勇魚のジンの生活を知り、無害だと理解すると次第に打ち解け、カタストロフィに備え、互いに協力体制を築き始めます。 勇魚は若者たちに外国語を教え、知的障害者のジンは、勇魚と「自由航海団」の若者たちが共に守るべき存在として集団の中心となります。

 

 私が「自由航海団」に対して最初に感じた印象は、連合赤軍、オウム心理教、マンソンファミリーのようなカルト集団でした。

 初めは趣味のサークルのような共助コミュニティが、集団が大きくなるにつれ活動は過激になり、閉鎖性を増し、社会という外部からの抑圧と、組織内の集団ヒステリーによって徐々にカルト化して行く、といった事件を私達は現実世界で何度も見ています。

 作中の「自由航海団」もそれらに近い属性がある事は否めません。しかし、あえて違うところを挙げるとするならば、それは知的障害を持つジンという存在と出会ったということなのではないでしょうか。

 ジンという守るべき対象を得た「自由航海団」の彼らは、もはや後戻りの出来ない運命に押し流されながらも、必死に最良の選択を探し続けます。そして、ジンのために彼らの目的が大きく軌道修正された時、私は人間の良心の可能性のようなものが見えた気がしました。

 

 

下巻のあらすじです。

 

 『洪水はわが魂に及び(下巻)』あらすじ

 「縮む男」は処刑され、もと自衛隊員は逃亡に失敗して自爆した。現代のノアの洪水に船出した「自由航海団」は、いまや機動隊に包囲され、全てが宙ぶらりんのまま、そのむこうに無が露出している。銃を手にした大木勇魚は「樹木の魂」「鯨の魂」に向けて、最後の挨拶を送る。

 「すべてよし!」

 人類の破局とその未来を黙示録的な電光のもとに浮かび上がらせて稀有の感動を呼ぶ雄編。

 

 

 

・勇魚が交感する「樹木の魂」「鯨の魂」とは何だったのか

 

作中には、勇魚が瞑想を通して「樹木の魂」「鯨の魂」と交感(交信)する場面が度々出てきます。

本当に交信しているのか、妄想に取り憑かれているのか、具体的な説明の無いまま物語は進行します。

しかし、以下の箇所を読んでいる時に、この交感と言うものが何を意味するのかが分かったような気がしました。

 

 「自由航海団」の若者たちは、いつか遠洋航海にでかける時のために、勇魚に英語を教えて欲しいと申し入れます。勇魚は申し入れを受けますが、シェルターにある英語の本は『白鯨』とドストエフスキーの英訳しかありません。英文のテキストとして適切かどうか全く自信を持てないまま、勇魚は、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」のある文章を引用します。

 

Young man be not forgetful of prayer. Every time you pray, if your prayer is sincere, there will be new feeling and new meaning in it, which will give you fresh courage, and you will understand that prayer is an education.

 "青年よ、祈りを忘れてはいけない。祈りをあげるたびに、それが誠実なものでさえあれば、新しい感情がひらめき、その感情にはこれまで知らなかった新しい思想が含まれていて、それが新たにまた激励してくれるだろう。そして、祈りが教育に他ならぬことを理解できるのだ。"

 

 勇魚は、このテキストを読んだ若者たちはきっと「宗教臭い」と感じるだろうと思いました。とくにprayer(祈り)という言葉に対しては、救済とは無縁の生活をしてきた彼等にとって、その言葉の響きは露骨な嫌悪感を抱かせるであろうと。

 ところが若者たちは、このテキストに強い興味をよせたばかりでなく、ほかならぬprayerという言葉に強くひきつけられます。

 彼らの関心は、神や仏に祈るといった何に対して祈るのかというよりも、祈りという行為そのものから起きる、心の動きや肉体的な手応えのようなものでした。

 勇魚自身も祈りとはどのような行為なのかを改めて考え、自分が怪我をした時に一晩中痛みと闘った時の体験を例にあげます。

 痛みの箇所に集中し、痛みの原因を考え、痛みの不安を遠ざけようと努力したあの体験は、自身の内面に集中し、内面を豊かなものにする”祈り”だったのではなかったか、と若者たちへ提示します。

 

 私は、この部分を読みながら勇魚がことあるごとに行う「樹木の魂」「鯨の魂」との交感こそが、"祈り"という行為そのものだった事に気付きました。

 物語の後半まで、勇魚の交感(交信)は樹木や鯨へ向けて一方的に発信されるものでした。しかし、勇魚が自身の運命を決断したとき、樹木や鯨から勇魚に向けて初めてメッセージが届きます。

 "樹木や鯨の代理人であったはずのおまえが、なぜあれだけ醜いと言い続けてきた人間の味方をしているのか。"

 そのメッセージに対して勇魚は、自分は樹木や鯨の代理人だと思っていたが、本当は樹木を切り倒し、鯨を喰う人間の側の一人であった、と懺悔します。

 

 結論として、私は勇魚の交感は”祈り”であり「樹木の魂」「鯨の魂」は勇魚が自分の中に生み出した"理想(神)"であったと感じました。

 自身の理想(神)に向けて自問自答を繰り返しながら、理想を理想として理解し、自我を自我として理解できたときに初めて勇魚は本来の自分自身を理解し、受け入れる事ができたのではないかと思います。

 勇魚が物語の最後に発する「すべてよし!」という言葉に、それらがあらわれていると私は感じました。

 

 

・最後に

 

大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』は1973年に出版されました。

今から約50年前の小説とは思えないほど、全く色褪せず、現在の私の心を揺さぶるのですから、文学の威力はすごいですね。

 

人が困難に向かう時、それを乗り越えるための方法が見つかるとは限りません。

不安と戸惑いの中、選択を間違え、辛い思いをしたり、遠まわりをしたり、核シェルターに閉じ籠ったりしてしまうこともあるでしょう。

しかし、それらは徒労や無駄ではなく、祈りであるという本作のメッセージは、とても暖かく慈愛に満ちたものでした。

 大江健三郎の小説は、決して仄々とした優しい小説ではありません。辛辣で残酷で、生々しい描写は、全ての人に受け入れられるものではないでしょう。

 それでも目を背けたくなりながら深淵を覗き込み続けると、一点の光明が見えてくる、といった読書体験は、困難の真っ只中にいる人々にこそ勇気を与えてくれるのではないでしょうか。

知的障害をもつ子どもの親に限らず多くの人に読まれて欲しい作品です。

 

 

 

 

大江健三郎『洪水はわが魂に及び(上・下)』(1973年 新潮文庫)

 

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