2024年本屋大賞受賞をはじめ、数々の文学賞現時点で15冠!、発行部数50万部超え!という大ヒット作品『成瀬は天下を取りに行く』をとても楽しく読みました。
各メディアに取り上げられ、話題に上ることも増えた本作ですが、書評などを見ると意外にも賛否が分かれていて、誰もが私のように楽しく読んだ訳では無いのだなと感じています。
書評というものは個人の感想ですから、様々な意見があって当然ですし、どのように読むのも自由です。しかし、様々な書評を読みながら、私なりに賛否の分かれるポイントのようなものがあるような気がしたので、今回はそれを書いてみようと思います。
いつものように、自閉症の息子を持つ私から見た感想なので、それなりのバイアスは掛かっているとは思いますが、一つの意見として読んでいただけたら嬉しいです。
内容紹介
2020年、中2の夏休みの始まりに、幼馴染の成瀬がまた変なことを言い出した。コロナ禍に閉店を控える西武大津店に毎日通い、中継に映るというのだが……。M-1に挑戦したかと思えば、自身の髪で長期実験に取り組み、市民憲章は暗記して全うする。今日も全力で我が道を突き進む成瀬あかりから、きっと誰もが目を離せない。
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"聖なる愚者"
『成瀬は天下を取りに行く』という作品に、私は、"聖なる愚者(Holy Fool)"の形式を用いた物語、という印象を持ちました。
無知なるものは悪や欲を知らず無垢であるが故に真理を体現する、といった宗教や哲学、文学に古くから用いられているテーマで、作品で言うと、ドストエフスキーの『白痴』、ロバート・ゼメキス監督作『フォレスト・ガンプ』、国内の作品では画家の山下清をモデルにした『裸の大将放浪記』、山田洋次監督作『男はつらいよ』シリーズなどが挙げられます。
しかし、本作の主人公”成瀬あかり”は、スポーツ万能で学力も優秀、家庭に問題もなく、環境にも容姿(表紙絵)にも恵まれ、更に並外れた行動力を持った少女として描かれているため、"聖なる愚者"の物語における、能力や環境において不遇な人物に見えなかった読者もいるのかもしれません。
本作を好きになれなかった読者の意見に、実在の人物としてはリアリティに欠ける、傍迷惑なだけで好きに慣れない、共感できないといったものが多いのも、そこがポイントのような気がします。
私のような読者(知的障害者との日常的な関わりのある読者)が本書を読むと、平均以上のIQをもちながらも、日常生活での適応や社会的な場面での振る舞いに課題を抱えることが多い自閉スペクトラム症(これまで"アスペルガー症候群"と呼ばれていたタイプ)が、長瀬あかりには当てはまる、と直感的に感じてしまいます。
そのため、主人公も、家族も、これまでに様々な不遇を経験していて、困難を乗り越えるためのスキルを身につけてはいるものの、社会ではまだまだ異質なものと見られてしまっている、という前提を持ってしまうため、聖なる愚者の物語として本書が読めてしまうわけです。
つまり、成瀬あかりが自身が困難を抱え困っている人間という前提の有無によって本作の見え方は大きく変わるのではないか、というのが私の意見です。
障がい者だから仕方ない、障がい者だから受け入れろ、ということが言いたいわけではありません。本作はフィクションですし、登場人物も全て架空の人物です。作者や編集に携わった人でなければ、物語の本質も、意図も、正確なところはわかりません。
それでも、自閉スペクトラム症の認識が本作の評価に影響しているのではないか、という個人的な思いつきをもとに、『成瀬は天下を取りにいく』という作品を通して、多様な自閉スペクトラム症の一面を紹介できたらと考えています。つづけます。
成瀬が方言を話さない理由
本書の批評の中に「滋賀に住んでいるのに、関西弁じゃないのはおかしい」というのを見つけました。確かに成瀬あかりは生まれた時から滋賀県在住で、強い地元愛を持っています。そんな人物であれば、むしろ誇りを持って方言を使うのではないか、という考えに共感を持つ人は多いでしょう。
松本敏治・著『自閉症は津軽弁を話さない』によると、人は言語を習得する際、日常の会話を通して習得される自然言語と、テキストや指導を通して習得される学習言語の2つのパターンがある、とあります。
しかし、コミュニケーション能力に不全のある自閉スペクトラム症の場合は、言語の習得のほとんどが学習言語なため、自然言語である方言は習得されることが少なく、加えて、自閉スペクトラム症者の場合、口調や話し方を人によって変えること、つまり心理的距離に応じた言葉の使い分けが難しいとあります。
成瀬あかりの使う言葉(標準語、形式的、敬語なし)が、対人のコミュニケーションよりも学習によって身につけた能力であると考えると、あの独特な喋り方や、方言を用いない理由も、辻褄が合うのではないかと思いました。
成瀬が地元にこだわる理由
強い地元愛を持つ成瀬あかりに、共感や魅力を感じる人も多いのではないでしょうか。私も含め、多くの人々に"地元"という慣れ親しんだ土地があり、そこに思いを馳せるとき、懐かしさや親しみといった暖かな気持ちを呼び起こさせます。
しかし、定型的な人々の言う地元愛と、成瀬あかりの地元愛は少しニュアンスが違うように私は感じました。成瀬あかりの地元愛や、それに準ずる行動は、思いを馳せたり、偲んだりといった客観的なものではなく、自身の住む場所を更に良いものにするための具体的な”環境整備”を目的とした直接的なものに見えます。
共感を苦手とする自閉スペクトラム症者にとって、利他的な行為、利己的な行為、という概念を理解することは困難です。
それでも、それらの概念も含めて学習から習得したものとするならば、"すみよい街づくり"は、成瀬あかりにとって具体的で合理性を持ったものに見えたのではないでしょうか。
人々が暮らしやすい環境になるということは、成瀬あかりにとっても過ごしやすい環境になります。しかも、最近ではインクルーシブ(すべてを含む、包括的)やダイバーシティ(多様性)といったスローガンを地方自治体は地域振興や社会福祉の意味合いを込めて積極的に打ち出し、具体的なガイドラインなども提示していたりもするので、彼女にとって、分かりやすく、意義のある行為として実感できるものだったのではないかと感じました。
成瀬あかりが全身全霊で江州音頭を踊る理由
"成瀬は片手にブーケを握り、全身全霊で江州音頭を踊った。"が本作の最後の文章です。
物語の経緯を知らなければ、全身全霊で江州音頭を踊る成瀬を見て、「何をやるにも常に一生懸命だな」と言う人もいれば、「こんなローカルなお祭りで、なぜそこまでやるのかわからない」と感じる人もいるでしょう。
元来人は気持ちを言葉や表情や態度で伝え、その交換によって関係性を深めたり、友情を育んだりするものです。
しかし、成瀬にはそれが困難です。
移り行く季節の寂しさや、コンビの解散が杞憂に終わった嬉しさを、上手に表現できない彼女にとって、全ての気持ちを込めて江州音頭を踊ることだけが、その日彼女の出来た最大の感情表現だった、と思うと、さりげないラストシーンに、さらに良さが増すと私は思いました。
成瀬が何を考え、何を感じているのかを、理解する事は難しく、それによって周りが振り回される様子をコミカルに描いたのが本作『成瀬は天下を取りにいく』です。
私達の社会にも、理解しにくい人や、違和感を感じる人はいます。多くの人々はそれらの人達を視界から外す事で事なきを得ようとしますが、その視界から外された人達は、もしかすると何か複雑な困難を抱えていて、それを上手に伝えられない、表現できない、のかもしれない、という目線は社会においてとても大切なことだと思います。
おわりに
『成瀬は天下を取りにいく』という作品を通して、世の中のちょっと変わった人(私や息子を含む)の持つ様々な事情を想像してもらいたいという気持ちを込めて記事を書きました。
本書はとてもユーモラスで軽快な文章なため、とても読みやすく、心に引っかかるものが何も無かったと感じた人もいたかもしれません。
でも、こんなふうに読んでみるとあら不思議、急に深く素晴らしい感じになりませんか!?という事が言いたくて長々と書いてしまいました。
毎回毎回無理矢理自閉症と結びつけやがって、と仰りたい方もいらっしゃるとは思いますが、自閉症の息子と暮らす私にとって、頭の中は常に自閉症のことだらけなのでございます。どうかそのへんも含めご容赦頂ければと存じます。ではまた。
宮島未奈『成瀬は天下を取りに行く』新潮社(2023/3/17)
参考図書・松本敏治『自閉症は津軽弁を離さない〜自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く〜』福村出版(2017/4/10)