朝、コーヒーを飲みながら窓の外を眺めている時、この家がなんらかの動力、もしくは魔法のようなもので飛行できる空飛ぶ家だったとしたらどこへ行こうか…と考えます。
いつか行きたかった場所、昔住んだ街、海を越え海外へ向かうのもいいかもしれません。
でも、上空の気流に木造家屋は耐えられるのか、領空侵犯で撃墜されないか、不動産が移動したら固定資産税はどうなるのか、水は、電気は…と、現実的な事を考えているうちに妄想は醒め、私はいつものように朝食の準備にとりかかります。
私達の生活は、店舗兼住宅の自営業、息子は自閉症、そこにコロナ禍まで加わって、現在は…もしくは今後も、好きな時に引っ越しや旅を考えられるような状況ではありません。
そんな状況が、私の意識下に旅や冒険に対する憧れを生み、空飛ぶ家のような妄想を生んでいるのだとしたら、なんだかとても寂しい人生のような気がしなくもありませんが、そんな私の人生も、視点を変えれば旅と冒険に溢れた人生なのかも知れないと思えてくる、そんな作品が今回ご紹介する映画『ノマドランド』です。
『ノマドランド』
本年度アカデミー賞 6部門ノミネート
作品賞、監督賞、主演女優賞、脚色賞、撮影賞、編集賞
リーマンショック後、企業の倒産とともに、長年住み慣れたネバダ州の企業城下町の住処を失った60代女性ファーン(フランシス・マクドーマンド)。彼女の選択は、キャンピングカーに全ての思い出を詰め込んで、車上生活者、“現代のノマド(遊牧民)”として、過酷な季節労働の現場を渡り歩くことだった。その日その日を懸命に乗り越えながら、往く先々で出会うノマドたちとの心の交流とともに、誇りを持った彼女の自由な旅は続いていく。
あらすじを読むと社会問題を提議する映画、と思われる人もいるかもしれません。
たしかにアメリカ合衆国では高齢者の約8割が労働しなくては生活を維持できないという現実があります。しかし、それならどう生きるか、どんな幸福があるのかを考え、一つの生き方として"ノマド(遊牧民、放浪者)"という新しいライフスタイルを実践している人々に焦点を当て、描かれた作品が『ノマドランド』です。
監督は中国で生まれアメリカで活躍中の女性監督クロエ・ジャオ。次回作はなんとマーベル・シネマティック・ユニバースの最新作『エターナルズ』。
主人公ファーンを演じるのはアカデミー賞主演女優賞を2度受賞している大女優フランシス・マクドーマンド。
そして、出演者のほとんどは演技経験のない、ノマドとして生活をしている実際のワーキャンパー(労働の意味のワークとキャンパーを合わせた略称)で、彼らの実生活を追ったドキュメンタリー的な手法と、最小限の演技や台詞によって心象を描き出す洗練された演出、とんでもなく美しい映像など、今思い返してみても、自分がそこで生活をしてきたかのような感覚の残る素晴らしい作品でした。
ノマドとはティクタアリクである
『ノマドランド』という作品を観て、私は生物の進化について考えていました。映画の感想としては少し飛躍しすすぎかもしれませんが、なぜそう思ったかについて少し書きます。
生物は旅をするという本能を持っています。
天敵から身を守るため、食料を得るため、種の繁栄のため、と理由は様々ですが、それらの根本的な理由は生きるためです。
地球上の全ての生物は生きるために旅を続け、生存競争を繰り返し、生き残り、種を存続したことによって現在の生態系は作られています。
中でも文明を発展させた人類は、他の動植物に比べ生命の危機を大幅に減少し、死を遠ざけるための術はさらなる進歩を続けています。
しかし、人間同士の生存競争が無くなったわけではありません。
分断、差別、貧困などの社会問題が無くなる気配はありません。
特にテクノロジーによる合理化と少子高齢化は人間社会の構造を根底から覆しつつあります。
人も、文化も、古いものは無用の長物となり行く中、本作品に描かれるノマドと呼ばれる高齢者達は、長距離移動が可能な家を持ち、スマートフォンという拡張機能を手に入れ、変化し続ける社会に適応し、放浪を続けながら生活を謳歌しています。
彼等を見て、私はとても驚かされたと同時にある生き物を思い出しました。
「まるでティクタアリクじゃないか!」
注)ティクタアリク:デボン期後期に生息した陸に上がり歩き出した最初の魚類。
何もせずに助けを待つ、もしくは絶滅を待つのではなく、過酷な環境に適応するため、それまでの習慣や価値観を捨て、信念を持ち、状況に合わせて自身を強制的にアップデートしていく。そんな高齢のノマド達は、まるで海を捨て、陸上へ活路を見出したティクタアリクのようです。
彼等の勇気とエネルギーに、もしかすると私達の未来は、人そのものの進化と共に、想像のつかないような冒険に満ちた世界になるかもしれないのでは、と考えるようになりました。
ノマドとは私達である(ネタバレあり)
物語の終盤、主人公のファーンは、かつて自分が住んでいた場所を訪れ、処分せずに(できずに)倉庫に預けてあった私物を全て処分します。
そして、廃墟となった街、住んでいた自分達の家、好きだった裏庭の景色、それらをしばらく見つめた後、再び新たな旅へと向かうところで物語は終わります。
私はエンドロールを観ながら、劇中に描かれていたファーンのノマド生活は彼女の終着点なのではなく、過去に縛られた人生を再び解き放つための儀式だったのではないか、と思いました。儀式を終えたファーンがこれからどのような人生を歩んで行くのかは知る由もありません。ノマドの魅力に心酔し放浪を繰り返すのか、いつか居場所を見つけ新たなホームを築くのか、いずれにせよ、それらもまた人生の一場面にすぎないのでしょう。
放浪という場所の移動、月日という時間の移動、新たな生活という価値観の移動、私達は移り動くことで適応を繰り返し、特別な終着点もなくいつか消えて行く、それは儚いものかもしれないけれど、とても美しい。そんなメッセージがこの『ノマドランド』という作品の根幹なのではないかと思いました。
美しいかどうかはともかく、そう考えると、空飛ぶ家の妄想しながらコーヒーを飲んでいるだけの私も、人生を彷徨う"ノマド"の一人なのかもしれませんね。
思えば、とくべつ旅行をしているような感覚はありませんでしたが、いろんな意味で人生をさまよってる感はありました…。
最後に
最後まで読んでいただきありがとうございます。
『ノマドランド』は現在絶賛公開中です。
本作があまりに良かったので、クロエ・ジャオ監督作品『ザ・ライダー』も観てみたのですが、これも驚くような傑作でした。やはりドキュメンタリー的な手法と映像美が印象的で、これはクロエ・ジャオ監督の作家性なのだと感じました。そして!
フランシス・マクドーマンドの主演作品にハズレ無し!!
『ファーゴ』も『スリー・ビルボード』も大傑作ですが、ここに『ノマドランド』という更なる傑作が加わりました。まだ観ていない方は是非ご覧いただいて、フランシス・マクドーマンドという女優の素晴らしさを実感して頂けたらと思います。
ちなみに、今日現在までに本年度アカデミー賞(作品賞)のノミネート作品全8作品中、6作品まで観ましたが、私は『ノマドランド』が獲るのではないかと予想しています。主演女優賞に関してはほぼ確実なのではないでしょうか。
というわけで、以上、”映画『ノマドランド』を観てノマドについて考えてみました。”と題して『ノマドランド』について書いてみました。
とにかく映像が素晴らしいので大画面の映画館で観ることをおすすめします!今観ておけばアカデミー賞授与式にまだ間に合いますよ!
監督:クロエ・ジャオ『ノマドランド』2021年