二冊連続で犬の小説を読みました。
一冊は今期の直木賞受賞作品、馳星周の『少年と犬』もう一冊は原田マハの『一分間だけ』です。
どちらもとても面白く、心温まる素晴らしい物語でした。
本当はこの二冊の感想を書こうと思っていたのですが、本を読んでいるうちに、私が記憶の奥底に仕舞い込んでいたものが、様々な感情と共に次々と溢れ出してきてしまい、収拾がつかなくなってしまいました。
ですので、今回、本の感想は他の人にお任せするとして、私が飼っていた犬の事を書くことにします。
店をオープンして一年が過ぎた頃、犬を飼うことにしました。
犬が大好きだった私達家族は、自分達の家に犬がやってくる事をとても喜び、犬を飼うための数々のグッズの購入し、大量の専門書を読みながら、仔犬がやってくる日を楽しみに待っていました。
千葉のブリーダーさんが連れてきてくれた仔犬は、最後まで買い手がつかなかったらしく、仔犬と呼ぶには少々、いや、結構大きく、柴犬の成犬くらいの大きさがありました。
それでも私達は、そのラブラドールレトリバーの仔犬をとても気に入り、ブリーダーさんが仮でつけていた"ゴウ"という名前のまま飼う事に決めました。
我が家にやってきたゴウは、売れ残ってしまった理由がなんとなくわかるくらい、"とても"活発で、新築の我が家の床や壁、ソファなどをことごとく破壊しましたが、私達は頭を抱えながらも、ゴウを可愛がり、そこから数年間はゴウを中心とした生活を送りました。
よく思い出すのは朝のひと時です。
寝室の出窓はベッドの頭側にあり、ロールスクリーンを開けると朝の光が一気に差し込みます。
早起きのゴウは、いつの間にか自分でロールスクリーンを開けるコツを覚え、目覚めるとすぐに勢いよくロールスクリーンを全開にしました。
もっと寝ていたい私は、激しく差し込む眩しい光にうめきながら体を捩りますが、ゴウはそのまま私の顔に腰掛け、出窓の縁に前足を乗せた姿勢で外を眺めるのが好きでした。
私は顔を座布団にされたままそれでもなんとか寝ようと努力しますが「駄目だ、苦しい・・・」と呟きながら渋々と起き、ゴウも座布団が無くなると安定が悪いのか外を眺めるのをやめ、私と一緒に寝室を出る、といった毎日でした。
それ以外のゴウとの思い出の中で、特に印象的なエピソードを挙げるならこんな感じです。
1・マーキングの鬼と化す
2・車にはねられる
3・野犬デビュー
・マーキングの鬼と化す
マーキングとは、動物が尿をかけたり、からだをこすりつけたりして、なわばりを示すことを言います。
ゴウは他の犬に比べて、マーキングの回数がとても多い犬でした。
しかも両足を上げるという独特なフォームのため、ほぼ狙い通りにはマーキングされないという残念なタイプでした。
毎回、必死のマーキングは2〜3メートル歩くごとに繰り返されるため、散歩の途中で尿は足りなくなり、後半はほぼエアーマーキングになってしまっていましたが、それでもあきらめない姿勢はまさにマーキングの鬼でした。
・車にはねられる
ゴウはとても陽気な性格でした。常に感情を全身であらわすタイプというか、まぁ、要するに落ち着きのない犬でした。
ある日、散歩に行けるのが嬉しすぎて勢い余って道路に飛び出したゴウは、私の目の前で車に跳られました。
しかし、4〜5メートルほど飛ばされた後、見事に着地し、そのまま尻尾を振りながらこちらに戻ってきました。
状況がうまく飲み込めない私は、たった今車に跳ねられたのに散歩に行く気満々のゴウを無理矢理車に乗せ、病院へ向かいましたが無傷でした。
獣医さんには身体能力が高すぎると言われました。
・野犬デビュー
ゴウは他の犬と遊ぶのが大好きで、犬がいれば必ず遊びたがります。
ある日、街から少し離れた山林にある無人の公園でリードを外して遊んでいると、突然ゴウが走り出しました。
慌てた私はすぐに後を追いましたが見失ってしまい、そこからしばらく探しましたが全く見つかりません。
茫然自失のままベンチで休んでいると、数百メートル先に7〜8頭からなる野犬の群れが列をなして走って行くのが見えました。
よくみるとその群れの中にゴウがいました。
意気揚々と野犬の群れと共に走る姿があまりにも馴染んでいて、私は「ああ、ゴウは野犬になってしまった…」としみじみ思っていましたが、すぐに思い直し、大声でゴウ!と呼ぶとゴウは群れを離れ、こちらへ向かって走って来ました。
きっと私が声をかけなければ、そのまま野犬デビューしていたと思います。
こうして挙げてみると、盲導犬や介助犬などの落ち着いたイメージの強いラブラドールレトリバーとはまったく違う、個性的で変わった犬だったと認めざるをえません。
それでも、私達にとっては大切な家族の一員でした。
【最後に】
人間が人間以外の動物に話かけるとき、言葉を持たない動物からは、具体的な返答が得られる事はありません。
それでも動物に向かって話しかけている人間の姿が、私は好きです。
返答を求めずに語りかけるという行為が祈りのようでもあり、直向きで、慈愛に満ちて見えるからかもしれません。
言葉を持たない相手の気持ちを想像したり、理解しようと努める気持ちは、結果的に人同士のコミュニケーションにも大いに役立ちます。
いま思えば、私と愛犬との12年間は、その後、私が経験する幾つもの試練を受け入れていくための素地のようなものを与えてくれたような気がします。
『少年と犬』の作中に、少年が「多聞(犬の名前)、いるんだ。ここに」と自分の胸を指差す場面があります。
私のここにもゴウがいるのかもしれません。