2020年11月
診療所から紹介され、手術受けることになった病院は、家から車で約1時間、高速道路を使って40分程の場所にあります。
広大な敷地に建った大学の附属病院で、案内図を見ても迷ってしまうくらい大きな施設でした。
何とかたどり着いた口腔外科で受付を済ませ、簡単な検診とレントゲンを撮った後、担当医から手術までの具体的な経緯が以下のように説明されました。
【手術一か月前】
術前検査( 胸部レントゲン、心電図検査、血液検査、肺活量検査、尿検査)
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【手術三週間前】
最終手術相談、誓約書作成、入院手続き、PCR検査キット配布
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【手術二週間前】
新型コロナ対策として自宅待機開始
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【手術5日前】
PCR検査キット提出
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【手術当日】
飲食は前日の午後9時まで。当日の午前7時までは少量の水分補給は可。手術後は当日中に帰宅可。術後の経過によっては一泊。
こうしてみるとごく当たり前なプロセスですが、これらの説明を受けていた時の私の頭はパニックです。
検査一つとってもまともにやったことがあるのは尿検査くらいで、それ意外は全く未知の領域です。果たして息子がこれらの検査をスムーズに行うことができるのか。加えて二週間もの自宅待機を息子とどのように暮らせばよいのか、PCR検査で陽性だったらどうしよう、といった考えが次々と頭をめぐり、担当医の説明には反射的に頷きながらも、思考の整理はうまくいかず何度も同じ事を聞き返してしまいました。極め付きは、他に何か聞きたいことがあれば、という担当医の質問に恐ろしく頓珍漢な質問をしていまい、今思い出しても恥ずかしさのあまり目眩を覚えます。
混乱していた理由はもう一つあります。それは、親不知以外の歯の治療についてでした。
今回の手術で抜歯するのは親不知の4本に加え、状況によってはそれ以外の歯も抜かなければならない可能性があるというのです。
私は、そんな簡単に永久歯を抜いてしまってよいのか、治療でなんとか残すことは出来ないのかを尋ねましたが、担当医の話によると、息子のように通院での歯の治療が困難な場合、通院や治療によって本人が受けるストレスなどの負担を考えると抜歯をすることは妥当なのではないか、というものでした。
今までずっと大切にしてきたものを、”抜くことで済ませてしまう”ということを受け止める事ができなかった私は、親不知の以外の処置に関して一旦保留にさせて欲しいと伝えその日の診察は終えました。
帰宅後、かろうじて落ち着きを取り戻した私は、まず紙に大きくスケジュールを書き、台所の壁のど真ん中にそれを貼りました。
これからの毎日、それを見ながら思いついた事を調べ、書き込み、心の準備をしていくためです。親不知以外の抜歯に関してもしっかりと検討し、息子にとってできるだけ良い選択をしなければなりません。そして、何より私が、手術の不安を解消し、気持ちの余裕を持って息子のサポートが出来る様になる必要があります。
そのためには、とにかく沢山の情報が必要です。
私が始めたことは、本やネットで調べることのほかに、ご来店されたお客様や知人との会話の中で、できるだけ沢山の人と親不知のことを話してみる、ということでした。
専門的な事はわからなくても、成人であれば誰もが親不知を抜いた経験や、歯医者さんでのエピソードなどを持っているはずです。その中にはきっと今回の手術の判断に役立つものがあるかもしれないと考えたのです。
試みは成功しました。
「娘も全身麻酔で親不知の手術をしたんです」「けっこう腫れるんですよね、そんときの写真見ます?」「全身麻酔で眠るとき、とても気持ちがいいんですよ」「大丈夫!あっという間だから!」
といった、お客様方からのお話は私を勇気づけ、未知の不安を和らげてくれました。
私自身も、不安を言葉にして話すことで考えが整理され、徐々に気持ちの余裕が生まれてくるのを実感していたと思います。
特に印象深かった言葉がありました。
「わたしなんか、自分の歯は3本しかないけど、なぁーんにも不自由してないよ」
私は、完璧な歯に執着するあまり、歯が揃っていなければ息子を不幸にしてしまうかのような妄想にとらわれていたのかもしれません。
息子の歯がいきなり3本になってしまうのは困りますが、1〜2本の歯を抜くことなんて小さなことかもしれないと考えられるようになった時、抜歯の判断等は知識と経験を持つ担当医を信頼し、私自身は息子の精神的なサポートに専念することを決めました。
そしてそれからは、「大丈夫」「きっとうまくいく」と心で繰り返しながら、台所の壁に貼られた紙を見つめる日々が続きました。