2021年2月
年明けに行った術前検査は、特に問題もなくスムーズに終えることができました。
PCR検査は陰性。二週間の自宅待機はNetflixと、若干申し訳ないお昼ご飯と、息子と二人で行うストレッチや体操で何とか乗り切りました。
そして手術当日、入院の受付を済ませた私達は、開業したてのホテルの一室のような個室に案内されました。
9時30分 想像とは違った明るく広々とした病室はとても落ち着いた雰囲気です。壁に飾られたナマケモノの絵も気持ちをリラックスさせてくれます。
私達を見て「お二人とも大きいですね!」と笑顔で驚いた担当の看護師さんは、丁寧に問診と検温、血圧測定をした後、順番が来たら迎えに来ますと言い残し病室を出ていきました。
とくにする事も無い私達は、窓から外を眺めたり、意味もなく戸棚や冷蔵庫を開けたりしながら時間を潰し、その後息子を手術着に着替えさせベッドに寝かせてから、私は折り畳み椅子を出して病院のパンフレットを眺めてたりしていました。
11時10分 迎えに来た看護師さんと一緒に、私は息子と手を繋ぎ病室を出ました。
迷路のような院内を、看護師さんに導かれるまま手術室へ向かいます。繋いだ手から息子の緊張が伝わってきますが、足取りは落ち着いていました。
11時20分、私と息子は手術用キャップをかぶり手術室の中へ案内されました。
麻酔科の先生に「注射は大丈夫ですか?」と聞かれたので、採血検査も出来たので大丈夫だと思いますと答えました。
手を繋いだ息子を促しながら手術台に横にします。
息子の腕にゴムバンドが巻かれ、点滴の針がゆっくりと刺し込まれていくのを、私は緊張しながら見守りました。
息子は針が入る一瞬だけ体を硬らせましたが、とても落ち着いています。
「おりこうだね、すごいね」という先生達の声かけの中、酸素マスクをつけた息子の瞬きは少しずつゆっくりとなり、意識が遠くなっていく様子がよくわかりました。
このあとは病室でお待ち下さい、と言われ、私はよろしくお願いしますと頭を下げ手術室を出ました。
11時40分 一人病室に戻った私は、ここを出てから30分しか経っていなかった事に驚き、再び折り畳み椅子に座りました。
それから、自分も息子と一緒に7時以降何も水分を取っていなかった事に気づき、自販機でコーラを買い、一口飲み、待ち時間に読もうと家から持ってきた小説を開いた時、唐突に涙が出てきました。
感情が込み上げて、というよりは、最近は何か緊張が解けるたびに涙が出るようになってしまったような気がします。
老化なのか、自律神経の問題なのかはよくわかりませんが、とても困っています。
私はいったん本を閉じ、涙が止まるまで目を閉じていました。
12時00分 何か食べたい、という気持ちはありませんでした。
病室のドアの向こうはとても静かです。それでも、入院されている方や、働いている人々の気配は感じられます。
かすかに聞こえる様々な音の中に、移動式ベッドのキャスター音が聞こえるのですが、その音が聞こえるたびに息子のベッドが運び込まれてくる音なのではと、何度も身構えました。小説はなかなか読み進める事ができません。
13時50分 小さなノックの音がして、担当の看護師さんから手術の終了した事を伝えられました。
息子はベッドごと部屋へ運び込まれるものと思い込んでいたので、キャスター音のたびに身構え続けたあれは何だったのかと思いつつ、再び迷路のような院内を歩き、手術室へ向かいます。
手術室へ入ると、ベッドに横たわった息子は朦朧としながら、全身を震わせていました。
腫れた唇の周囲には乾いた血液がこびり付いています。
担当医からは、震えは手術後にはよくあるということと、手術は自体は滞りなく完了したことを伝えられました。
私は「よく頑張ったね」と声をかけながら息子を乗せた移動式ベッドと共に歩き、自分達の病室へ戻りました。
14時20分 病室に戻った息子は、気になる唇をしきりに舐めては、数秒間眠り、たまに声を出してみては、また数秒眠るを、繰り返していました。
違和感から眠れないのか、混濁した意識から逃れようとしているのかはわかりませんが、私に出来るのは息子に声をかけてあげることくらいです。
「虫歯はなくなったよ。もう大丈夫だよ。」
「お口が大きくなった気がするね。ま、す、い、のせいだよ。」
「もうすぐお水飲めるよ。」
「おねえさん(担当の看護師さん)、やさしいね。」
「もう少したったらおうち帰ろうね。」
「よく頑張ったね。えらいね。」
と、いうような事をそれぞれ10回ずつくらい言っていると、少しずつ息子の表情に力が戻ってきているのがわかりました。同時に、少しずつ顔の腫れも目立ってきたように感じます。
16時20分、 担当医と担当の看護師さんが病室を訪れ、術後経過の診察を始めました。
身体を起こし、しっかりと水を飲む息子の様子を見て、術後の経過は問題なく、このまま帰宅しても大丈夫ということになりました。ひと安心です。
処方された薬の説明、今後の食事などの説明、以後の対応などの説明を受けた後、私は担当医と看護師さんのそれぞれに感謝の気持ちを伝え、息子を着替えと会計を済ませ、ナマケモノの絵のある病室を後にしました。
15時10分、 駐車場に停めていた車に乗り込み、私達は家へ向かいます。
長かった一日が終わりました。
全身麻酔による親不知の手術は、現代医療では特別珍しいことでも、極端に危険を伴うものでもないかもしれません。それでも、自閉症の息子と私にとっては、未知で大きな不安を孕んだ、これまでに体験したことのない経験でした。
最初の問診のとき、担当の看護師さんに「息子さんは、痛い時、苦しい時にどんな反応をしますか?」と尋ねられました。
私は、「息子はうまく言葉で意思を伝えることができません。ですので、私が気付くことの出来ない痛みや苦しみのほとんどは、黙って我慢しているのではないかと思います。」と答えました。
今回、息子は声を荒げることも、暴れることもなく、全体を通して落ち着いて手術を受けることができました。でももしかすると、私にもわからない心の奥で、息子は一人で不安や苦痛と闘っていたのかもしれません。
思い返してみれば、手術をしてくれたのは担当の先生、頑張ったのは息子、励ましてくれたのは店のお客様たち、私は息子の横でただオロオロとしていただけだったような気がします。
帰り道、少し頬の腫れた息子は、高速道路を走る車の窓から夕焼けの景色を見つめていました。
私はハンドルを握りながら、長かった数ヶ月が少しずついつもの日常に戻って行くのを感じていました。
そして、虫歯の無い歯だけでなく、こうした日常が私たちの”誇り”なのだと感じていました。
※写真は、病室で私と一緒に息子を応援している招き猫