朝、息子は起きた時から落ち着かない様子でした。
部屋を歩き回り、表情は強張っています。
こんなとき、息子は大抵パニックを起こします。
昔は毎日でしたが、今でも月に一度くらいは、こういう日が訪れます。
怖い夢を見たのか、体調がよくないのか、いくつか原因を考えてみますが、まずは私自身が落ち着く事を考えます。
表情や口調などから私の緊張が息子に伝わってしまうと、息子の不安はさらに強まり、パニックをおこす可能性も強まってしまうからです。
焦らず、出来るだけ自然な笑顔を心がけ、慎重に、慎重に、いつもの朝のローテーションをこなしながら、さりげなく息子の様子も観察します。
いつもよりも少し時間のかかった朝食を終え、表情も少し柔らかくなったタイミングを見て、そろそろ大丈夫かなと、息子に着替えをうながした時でした。
「どん!」という大声とともに、息子の拳が私の胸を打ち付けてきました。
激しい衝撃を受け、屈み込む私に、様々な感情が押し寄せてきます。
「またか」「やっぱりこうなった」「どこで間違えた」「何でこんな目に」「もう嫌だ」「一生こうなのか」「頭に来る」「怒りたい」「怒るか」「だめだ」「怒っても意味がない」「自分がパニックになってどうする」「大丈夫」「骨は折れてない」「大丈夫」「落ち着け」「大丈夫」
こんな感じの心のやりとりを大体3秒くらいでやり、なんとか気持ちを立て直します。
息子は唸り声をあげ、自分の指を思い切り噛んでいます。
こうなってしまうと、もうパニックを回避することは出来ません。
私は息子のパニックと向き合う覚悟を決めます。
息子の第二波は決まって物を投げます。
クッションを投げてきたので、私は避けずにそれをキャッチします。そしてそのクッションを使い、息子の更なる攻撃に備えます。
パンチが来たらクッションで受ける。
投げてくる物もクッションで受ける。
キックは当たらない距離を保つ。
怒らない。焦らない。相手をよく見る。
それらを繰り返しながら嵐が過ぎる去るまで耐えます。
息子が疲れ、落ち着いてきたタイミングを見て、私は「座る」と言って息子をソファーへ座らせます。
次に「水を飲む」と言って、息子に水の入ったコップを渡します。
息子は水を飲むことでようやく気持ちを切り替え、少し落ち着くと、きまって涙を流し始めます。
涙の理由が何なのか、正確にはわかりません。
感情を伝えられない不安なのか、悲しみなのか、パニックを起こしてしまったことへの罪悪感なのか。
強く噛んだ指からは血が滲んでいます。
涙の理由、パニックの理由がなんであれ、息子は指を噛む事で激昂した感情を発散し、自らの意思でそれらと戦おうとしていたことは明らかです。
息子がまだ小さい頃、私はパニックや他害行為が始まるたびに、怒りに任せて息子を叱っていた時がありました。
怒る事、叱る事が親の務めだと信じていたこともありますが、本心は怒りの力を借りて不安を消し去りたい、自分を支えたいという感覚がありました。
しかし、それは間違いでした。
感情的になること、激しく叱ることが息子の不安を煽り、問題行動を更にエスカレートさせるということをその頃はまだ気付かなかったのです。
殴られた瞬間の私、指を噛む息子、今思えば、私達が戦っていた相手は、目の前の相手では無く"自らに押し寄せる負の感情"でした。
側から見れば激しくやり合っている親子にしか見えないかもしれませんが、「私達は互いに向き合いながら、自分自身の負の感情という共通の敵と戦っている」 そう思うことは、息子がパニックになった時に、私が平静を保つ上でとても役に立っているのです。
パニックの嵐は去り、涙を流す息子の横へ座り、傷口に絆創膏を巻きます。
私が静かに「どんしちゃだめだよ」というと、息子は「ばんそーこ」と言って絆創膏の巻かれた指にトントンと触れました。
「今朝もなんとか乗り切った。ナイスファイト。」
と、私は心の中でつぶやきます。