全八巻の『竜馬がゆく』も四巻になり折り返し地点を迎えました。
『竜馬がゆく(四)』~進む竜馬~
攘夷運動は様々な派閥と解釈の違いを巡って過激な様相を強めていきます。倒幕と佐幕の争いも新撰組の登場をきっかけに暴力性を高めていきます。
土佐勤王派は一掃され、幼なじみの武市半平太も岡田以蔵も非業の死を遂げます。
竜馬は昔の仲間たちの死を悲しみ、世の不条理を嘆きつつも、自分の選んだ道を進み、念願の軍艦を手に入れます。
と、いうのが四巻のあらすじです。
四巻は神戸海軍塾の運営に忙しく立ち回る竜馬とは対照的に、大義や面子のために命を落としていく志士たちが描かれます。
現代に生きる私にとって、幕末の志士たちの安易な命のやり取りは、未来のためと言いながらも自暴自棄な行動に見えて仕方ありませんでした。
武士の心得として書かれた『葉隠』という書物があります。
江戸時代の中期に書かれた書物なので生前の坂本龍馬も読んだかもしれません。
その書物に「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一文で始まる一節があります。
目的のためには死を厭わないことが武士道であると解釈される場合が多いですが、実際は全く違うそうです。
『葉隠』の真意は、自己を中心とした利害に基づく判断からの行動は、結局のところ誤った(その場しのぎのような)行動となってしまう、というもの。
そのため、本当に最良の(全体や将来を見据えた)行動ができる心境とは、自己を捨てたところ、すなわち自身が死んだ身であるという心境からの判断であり、そのような心境から得られる判断が、自分も含めた全体にとって最良の結果を生むというところにある、とされています。
竜馬はきっとそれを体現していたのではないでしょうか。
四巻を読みながら、私は、面子や手法にこだわらず、目的のために進み続けるということは、他から見れば無様に見えたとしても、決して死んでいるわけではないと、竜馬が自分の行動を通して、読者にも、死んでいった仲間たちにも訴えているように思えました。
司馬遼太郎『竜馬がゆく(四)』(1975,7,25)文春文庫